日本各地にある神社仏閣の不思議を、歴史や伝記等の形から見るのでなく、全く別な見方から研究した偉人、南方熊楠。
微生物たちを観察していると、どうしても彼の影響に触れてしまう。
微生物や粘菌の存在が、「日本の神事、世界のシャーマニズム」にマストで影響し、様々な神事や不思議に、真っ向から臨んだ天才南方熊楠は、常に私たちの道の先にいるように思えてならない。
私はこれまで紹介されてきた、熊楠像の紹介著書のほとんどに、違和感を感じている。
熊楠が振り切った世界観は、到底常人には説明できない。それゆえに〇〇大学卒の〇〇としか表現できないのだ。
何も達成し得ない知識人等が、理解も経験もできない世界観を説明することは、困難どころかその異様な世界観に及び腰になるのが通常であろう。
昭和天皇と会ったことさえ、熊楠にとっては必要に駆られてのことで、自ら望んだことでない。
南方熊楠は新種の粘菌発見から、様々な学問、シャーマニズム、日本民族学など、複雑に絡み合うフィールドを丹念に事象を積み上げ、遂には南方曼荼羅を書き上げた。
しかも学問のベースのほとんどが、何かの枠に囚われることなく、天才的な頭脳を持ちあらゆる語学を操り、図書館から世界放浪の旅まで、世界の不思議をサンプリングした。
熊楠にとって、日本の神社は人々に守られた最高の研究フィールドだった。世界中のどのシャーマニズムの現場でも、日本の神社のような完璧に守られた研究室はない。
粘菌は、19世紀末の生物学の最もホットな研究テーマだった。
顕微鏡の発達によって、この不思議な生き物である粘菌は、それまでの生物学の常識を越えたスキャンダラスな生命現象として注目を集め、時の昭和天皇も研究にのめり込んでいたのである。
熊楠にとって世界は限りなくフラットで、その境界線はどこまでも曖昧。無分別の境地であった。
その膨大でフラットなサンプルを、自分の中で再構築し、新たなビートと呪術的なグルーヴを生み出し、この世界とは別の次元にある不思議にアクセスし、様々な分野の専門学者達が束になっても得られない次元を旅し、積み上げ、紙一重の世界を見てしまったのである。
深い理解は、一つの専門分野のみからは得られない。だから、権威と学歴しか手に入らない最高教育機関には魅力も希望も持てず、熊楠は即!東大を辞めてしまった。
それからも、大学や研究機関に頼らない、その天才ぶりは誰も説明できない。
古来より、自然崇拝によって守られてきた日本の神社には、様々な粘菌や微生物が存在する森があり、多様な奇蹟や伝記を生んできた。
日本の人々は、神社の中にある石や土、葉っぱの一つにいたるまで、神宿るものとして大事に守ってきた。即ち手付かずの自然が守られた、地球唯一のフィールドが神社なのである。
さらに様々な神事は、微生物の存在なくして成り立たないのである。(世界のシャーマニズムに微生物は欠かせない)
熊楠は、その神社を壊す施策を実行した、時の政府と戦う環境保護活動家の先駆けとしての顔よりも、熊楠自身が怒り恐れたのは、実はそれだけでないのだ!
様々な研究の末、起きる事象の正体と、日本民族の拠りどころの確信に触れた上で、粘菌標本110種を惜しげも無く昭和天皇に献上し、粘菌学の枠を超えた解説も添えているのだ。
天皇という存在と繋がる、熊楠の運命力と粘菌たちの誘導力。
昭和天皇にとっても、熊楠の存在は、粘菌研究界のスターでもありながら、権威を超えた世界を魅せつける不思議力を持つ人物で、2人の友情は{粘菌の力によって}強く結ばれることとなる。
一技も心して吹け沖つ風
わが天皇のめてましし森そ
熊楠が歌った33年後の1962(昭和37)年5月。和歌山県白浜に行幸された天皇は、次の歌を詠んでいる。
雨にけふる神島を見て紀伊の国の
生みし南方熊楠を想ふ
たった一度の出会いが生みだす関係、昭和天皇御製の歌は数多く遺されているが、歌の中にフルネームが登場する人物は、南方熊楠、その人だけだった。
熊楠と昭和天皇との対話は、熊楠のこの世への最後のメッセージ。そして日本にとって最後のチャンスだったに違いない。
時に微妙な立場であった昭和天皇が、その後悲惨な戦争に吸い込まれていく。
開戦を決議する御前会議で、同会議では発言しないという慣例を天皇はそれを破り、明治天皇の和歌を読み上げた。
四方よもの海、皆同胞みなはらからと思ふ代に、などあだ波の立ち騒ぐらむ
(『杉山メモ』)
私は、この同胞と言う言葉に熊楠の影響があると思えてならない。
国家の運命を決める最終決定が和歌によって行なわれ、しかもその真意が会議の出席者にも理解できなかったことの悲劇は、人類史上最悪の戦争に繋がっていくのである。
そして熊楠は、大日本帝国が米国に宣戦布告をした同じ月、昭和16年12月の末に、力尽きたようにこの世を去るのである 。
その後日本は、天皇制維持条件に無条件降伏を受入れる。
日本に上陸した占領軍が最も恐れたゆえに、戦略的に練られた仕事は、神社の生業等、日本民族が大事に守り通してきた神々との交流の遮断。
その道具となる、「塩、大麻、酒」これらのコントロールであった。
焼け野原の中、生きることを優先せざるを得ない国民は、地域に根付いた神事より経済を優先させたのは言うまでもない。
したがって、現在の形骸化した神社の有り様となったのである。見事な米国の戦略の元、生存しているのが今の日本である。
しかし、米国は日本を、形はコントロールできたが、残された神社には未だ微生物たちが息づき、私たちと共にある。
それは、スリランカの薬草を米国が同盟国と称して計画的に搾取した戦略と通じている。
しかしスリランカも日本同様、混乱の中、いずれ自らの宝を復活させる時が必ずくる。
自然とは私たちの想像を超え、人間の叡智も、やがて自然と共に歩む時がくる。
私たちが日本の神社の不思議と、古来から続く風習や約束事などを理解するに至った時、科学は必ずや微生物、粘菌の存在を明らかにし、南方熊楠の偉業の凄さを感じる時が来ると信じている。